わんぱくクラブ育成会
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これまでのあゆみ


誰が企てたのでしょう? 必要に迫られ、追い詰められて、出口を求めてもがいてきたら、こんなに高くきてました。でも、いよいよ大変で、これから、どこまで行けるでしょうか

1987年  大変!民営の世田谷幼稚園学童クラブが廃止されることに…。
 そこで、必要を感じた父母が、仲間のバックアップを受けて共同で場所を借り、小学校1年生から6年生までの学童クラブ「わんぱくクラブ」を開所。そこはちょっと劣悪なばしょだった。なにしろ家賃5万円だから。でもそこに、3年生で学童卒業になるのを恐れていた障害児の親がいて、内心ほっとしたらしい。職員も引き続き仕事ができて、ひとまず、よかった。
その後の
5年間
 近くに区立の学童クラブができて、健常児や低学年の子どもたちは一安心。しかし、障害児や高学年の子どもは受け入れてもらえないからわんぱくに残る。障害児がポツリポツリ増える。健常児は減る。子どもは少ないのに、人手はかかる。お金がかかる。毎月バザーをしても、給料はあまり払えない。親も保育に入る。つまり、保育料を払いながら、保育もする。毎週土曜夜は父母会。話し合うが埒があかない。
 障害児の通所施設があると聞いて見学に行き、通所訓練事業という都の制度を知る。世田谷区に申し込むがなかなか認められない。福祉振興財団に申し込んだら「場所がひどいから」とダメになった。
1992年  そこで思い切って、古巣の世田谷幼稚園に場所を申し込んだ。交渉の末、家賃は10万円に。お父さんお母さん総出で色々直して、引越し。そして、福祉振興財団からお金が出たのです。高校を卒業したT君を中心に「青年学級」を始めました。
 93年2月資金作りのため、はじめてのコンサート「ダ・カーポコンサート」を行い、以後毎年度コンサートを実施するようになりました。
1993年 通所訓練事業がやっと認められました。Cランク。演劇教室開始。土曜日の親子外出開始。
1994年 通所訓練事業Bランク。
1995年 通所訓練事業Aランク。これで、事業が継続できるかな〜よかった〜と思ったのですが…。
1996年 交渉の成果があって、重度加算がつきました。でも、通所訓練事業は適用できなくなりました、地域デイサービス事業(補助額が少ない)です、という。激減緩和措置で当面通所訓練事業と同じ額だけど・・・。
1997年 署名運動をして、放課後対策に区の制度をつくってほしいと、補助金のこと、家賃補助のことを区議会に訴えました。1万人の署名が集まりました。年に(月ではなく)36万円の家賃補助が実現しました。
1998年 世田谷区に場所を用意してもらう方針を採り、「下馬幼稚園跡地」を下さいと求めました。それは年度末近くにどんでんがえしで、ほかのグループに行ってしまいました。
1999年 この年も場所を求めました。わんぱくクラブの子どもの数は40人になっていました。そして・・・。
2000年 1年だけ、三宿学童クラブ跡地を借りられて第2わんぱくクラブを開所。新入会員いらっしゃ〜い。
2001年 とうとう、わんぱくクラブ三軒茶屋、わんぱくクラブ駒沢の2つの場所を世田谷区から借りられるようになったのです。でも、駒沢という未知の地域に開所するのは心配でこわいという声も…。
2002年 2つのわんぱくになって、地域デイサービス事業にランクを落とされていたため、早くも財政難到来。
2003年 3年前から開始していた生活支援事業が「生活支援ひまわり」となり、介護人の手配をする。
2004年 支援費で移動介護を行う「生活支援わんぱく」を始める。
2005年 放課後対策のため、国にタイムケア事業という制度ができて、その予算が入るので、区の制度も改善目前までたどりつく。でも、ホームベースを目前にアウト! タイムケア事業は実現しなかったのです。
2006年 わんぱくクラブ駒沢の施設で、児童デイサービス事業の制度で、就学前の障害児の療育を開始。 厚労省はタイムケア事業をやめてしまった…頼るのは世田谷区だけ。
2007年 1992年以来、活動の拠点だった世田谷幼稚園の施設を出ることになり、場所探しを開始。